2020年7月13日月曜日

「武満論」の夢想

 昨日、私は「武満がどこかで『道を誤った』ように感じられてならない」と述べた。随分失礼な物言いであることは承知している。が、1970年代までの武満の作品が持っていた輝きを思うと、どうしてもそう言いたくなってしまうのだ。そして、こうも思う。「それらの作品に現れていた種々の魅力的な発想は1980年代以降の作品とは違ったかたちで展開できる可能性もあったのではないだろうか?」と。

私が夢想する「武満論」は、そうした――作曲家本人ですら気づかなかった、あるいは見落としたような――可能性を探り、その「展開」を考えるものだ(これが武満への敬意を表す私なりのやり方である。「夢想する」というのは、他にもっと優先順位の高い課題をいくつか抱えているからであり、いつこの問題に具体的に着手できるかわからないからだ)。私は何も従来の武満観や武満論が悪いとか間違っているとか言いたいのではない。そうしたものは武満の音楽のある面をそれなりにうまくとらえたものであろうと思う。が、本人の没後およそ四半世紀を経て、彼に近かった演奏家たちも徐々に世を去りつつある現在、あまり過去には縛られない武満のとらえ方(「論」にとどまらず、実際の「演奏」や「聴き方」)が出てきてもよいのではなかろうか。そして、そのようなものが出てこそ、彼の音楽は次の時代にも生き続けることになるのではなかろうか。「過去の名曲」としてだけではなく、現在にも何かしら意味を持つものとして。