三島憲一の名著『ニーチェ』(岩波新書、1987年)を久しぶりに再読していたところ、次の些細な一節に引っかかった。ニーチェがヴァーグナーの音楽に出会ったときのことを述べた件の中にこうあるのだ。「最初に楽譜を手に入れた『トリスタン』のピアノ抜粋曲」(同書53頁)と。「ピアノ抜粋曲」とはこれいかに。
そこで、西尾幹二のやはり名著『ニーチェ 第一部』(ちくま学芸文庫、2001年)を引っ張り出してきて、同様の箇所を見ると、そこではニーチェ自身の言葉が引かれていたが、訳文はこうだ――「トリスタンの抜粋ピアノ曲」(同書、256頁)。やはり「抜粋曲」である。
これは捨て置けないので、西尾本での出典たるニーチェの『この人を見よ』の当該箇所を見てみた。すると、こうなっていた:’Klavierauszug des Tristan’(de Gruyter社のKritische Studienausgabe第6巻のp. 289。なお、西尾は『この人を見よ』についてはこの版に否定的な評価を下しているが……)。これで疑問氷解である。正解は「トリスタンのピアノ・スコア」だ。
三島や西尾ほどの碩学でドイツ語の達人でさえ、ちょっと自分の専門分野から外れるとこうした間違いを犯す(この両氏の著作や翻訳からは多くを教わっており、感謝しこそすれ、揚げ足取りをして愚弄するつもりなど私には毛頭ない)。となると、浅学非才の私などいったいどれほど多くの間違いを翻訳でしていることやら……。ああ、恐ろしい。ともあれ、気をつけねばなるまい。