2024年12月18日水曜日

心の琴線に触れる「無言歌」

  私にとってメンデルスゾーンは今ひとつ馴染みがたい作曲家だった。なるほど、ヴァイオリン協奏曲やいくつかの交響曲、そして、弦楽八重奏曲や《夏至の夜の夢》などにはただただ感服する。が、そのことと自分にとっての「近しさ」は別物だ。だから、それらの作品も聴くのはごく稀でしかなかった(ただし、そのときには大いに楽しんでいる)。

ところが、このところ必要があってメンデルスゾーンのピアノ独奏曲をあれこれ聴いていると、心の琴線に強く触れるものがあった。それは一連の「無言歌」である。「古典主義」的ロマン派作曲家メンデルスゾーンのピアノ曲の中でもっともロマン派に近いのがこれであろうが、とにかく、素直に「ああ、いいなあ」と思いつつ聴けるのだ。

メンデルスゾーンはピアノの名手であったらしいが、それにもかかわらず、ピアノ曲には大曲がほとんどないし、とくにこだわりのある曲種もあまりなかったようだ。その中で「無言歌」は出版されたものとしては8集、48曲も書いているのだから、よほど愛着があったのだろう(彼は大金持ちの家に生まれており、楽譜の売れ行きを気にする必要もなかったので、作品の「需要」に応じたわけでもなかろう)。

 さて、現代の作曲家が「無言歌」を書くならば、どのようなものになるのだろうか?

2024年12月17日火曜日

メモ(135)

  人が物心ついたときには、すでに何らかの言語をある程度は身につけている。このことは音楽についても言えよう(音楽を「言語」に喩えるのは、この意味では適切であろう)。自分が生まれ育った環境に属する音楽の様式を、いつの間にか人は大なり小なり自然に身につけてしまう。そして、その様式を通して既存の音楽、のみならず、その他の物音をも聴いてしまう(メシアンにとっての鳥の鳴き声のように)。

すると、無垢の音、人によっていかなる意味づけもされていない音などというものは存在しえないことになる。人にできるのは、あくまでも「初期設定」に上書きし、自己の経験を更新することだけである。「音楽が生まれた原初状態」なるものをいくら想定したところで、初期設定が取り除かれるわけではない。

にもかかわらず、そのような「ファンタジー」が語られるとすれば、おそらく、既存の音楽文化に対する閉塞感や倦怠感のなせるわざだろう。だとすれば、そうしたファンタジーにもそれなりの意味はあろう。結果としてそこから新たに有意義な音楽実践が生まれるのならば。

だが、そのファンタジーはあくまでも実践の結果から正当化されるものであって、それを絶対の真理のようなものとみなすとおかしなことになろう。

 

2024年12月16日月曜日

AIによる作曲はどうなるか?

  現在、AIがさまざまな領域で用いられているが、その波は作曲にも及んでいる。が、うかつにも私はそのことが全く眼中に入っていなかった。今日、森本恭正さんからいただいたメイルでAIによる作曲のことに触れられており、ようやく気づいた次第(全く恥ずかしい)

ともあれ、インターネットで検索してみると、確かに関連する記事がいくらでも出てくる。そして、そうやってつくられたものをいくつか聴いてみると、いかにももっともらしい曲になっていたから驚いた。

おそらく、ちょっとした用途での「使い捨て」レヴェルの曲ならば現在のAIでもつくれるだろうし、そうした音楽で商売をしている作曲家にとっては死活問題であろう。が、もっと高水準の音楽創作までAIがこなせるようになるだろうか? これは注視すべき問題である。そうかんたんにはものにはならないと予想されるが、さりとて全く不可能だと断言もできない。さて、どうなることやら(なお、ある種の(「すべての」ではない!)「現代音楽」作品ならば、今のAIでも十分もっともらしいものがつくれるような気がする)。

作曲家がAIに対抗するには、生身の人間でないとできないことをやるしかあるまい。そして、その1つは、おそらく、「作曲家の自作自演」であろう。20世紀における芸術音楽の「作曲」と「演奏」の分離は双方に悪しき影響をもたらしてきたが、その回復はこのAI問題においても大きな意味を持ちうるのではないだろうか。

2024年12月15日日曜日

メモ(134)

  人には究極の真理など知りようがない。が、それを努力目標とすることはできるし、そうであってこそ「よりよい」生がその都度実現されうる。

 人が手にしうるのは「暫定的な=改訂されうる」真理であり、それは「有用性」と言い換えられよう。

 真理が「暫定的な」ものであればこそ、異なる信仰やイデオロギーが並存しうる。が、それにはあくまでも「暫定性」の自覚が欠かせない。「絶対(究極)」の真理を特定の人(人々)や集団が独占しようとすることは許されない。人にはそんなことは無理なのだ。そうした自覚があれば、世の宗教戦争やイデオロギー闘争はなくなりはしないにしても、随分減るだろうに。

2024年12月14日土曜日

『ソナチネ アルバム』もまた面白い

  今日は恩師、松本清先生から『ソナチネ アルバム』(https://sheetmusic.jp.yamaha.com/products/4947817251927?srsltid=AfmBOoosdWjpcflG2cHy6BWVTPNOvJ61po2JPxfYeUeikbVT6ELn4AaX)をお送りいただいた。このアルバムはピアノ初学者が手がける2巻の同題の曲集から取捨選択されたもので、先生が校訂・解説を担当している。楽譜本文中には形式分析や演奏法に関する有益な書き込みもある。ともあれ、まことにありがたいことだ。

 そこに収められた数々の「ソナチネ」にお目にかかるのは随分久しぶりのことだ。が、いくつかの曲を弾いてみると実に面白い。『チェルニー30番』を話題にしたときと同様なことが、今回も起こったのである。すなわち、少年時代には見えなかったものが見え、聞こえなかったものが聞こえるのだ。それは以前よりも読譜力が向上したことと、作品の「音楽的背景」がわかるようになったことによるものだろう。それにしても、あの「ソナチネ」がこんなにも面白いとは……。ちょっとした音の動きや和声の変化の中に数々のドラマがあり、弾いていたわくわくするのだ(これはやはり、聴くよりも弾くことで味わえるものだろう)。

 まあ、才能のある子どもならばすぐにわかったことを還暦に近い大人が今更ながらに面白がっているわけで、つくづく己の非才に呆れるばかり。だが、遅ればせながらも、かつてあまり楽しめなかったものを楽しめるようになったというのは幸せなことだとも思う。というわけで、この曲集をとうの昔に卒業したと思っている方々にも再見をお勧めしたい(楽譜は上記のものを!)。

2024年12月13日金曜日

珍しくも学校教育の話題を

  次の記事を読み(https://news.yahoo.co.jp/articles/e86868cf0eda32d5081fc43e7aa5f476543b0e28

、ふと、昔のことを思い出す。今から30年以上も前のことだが、私は1年ずつ2回、中学校の臨任講師をしたことがあり、当然のように部活も担当させられた。が、2つの学校では部活への教員の関わりが大きく異なっていたのだ。

 1つめの学校は田舎にあり、良くも悪くも「昔風」だった。そこでは教員は勤務時間後も生徒の部活を最後まで見届けることが義務づけられており、場合によっては休日(サービス残業)出勤もあった(当時はまだ週休1日であり、たまたま校務分掌による休日出勤もあったりして、1か月全く休みがなかったときも。ただし、いわゆる「夏休み」がまだ健在だったので、その埋め合わせはなされたと思っている)。他方、2つめの学校は県庁所在地にあり、部活は「ボランティア」という位置づけだった。それゆえ、部活に積極的に関わるのも、関わりは必要最小限度に抑えて日々の活動を生徒に任せきりにするのも、教員が自由に選択できたのである(そのおかげで、私は早々に帰宅して大学院の受験勉強に励むことができた)。

 だが、いずれにせよ、学校に部活があることに対しては何ら疑問を抱かなかった。部活があるおかげで学校に行く意義を見出す生徒もいるはずだと思っていたのである。しかし、今は違う。学校から部活は切り離すべきだと確信している。さもなくば、ただでさえ日々の業務で忙しい学校の教員の負担があまりに大きくなりすぎるし、そのことは教育の質を下げることにも繋がるからだ。

なるほど、部活が学校教育の中でしかるべき意義を持っていた時代もあったろう。そして、今でもそうした場はあるのかもしれない。が、いろいろな問題を曖昧にしたままで善意の(あるいは不本意に関わらざるを得ない)教員の犠牲の上に部活が営まれているのだとすれば(まあ、中には部活の方が好きな教員もいるようだ――事実、昔のことだが、「吹奏楽の部活指導をしたいから教員になった」人がいるという話を耳にしたことがある――が、そうした人は授業やその他の面でも生徒への対応に力を傾注すべきだ)、一度制度設計をきちんとし直すべきであり、それができないのならば(たぶん、無理だろうから)、部活は完全に外注にすべきだろう。

2024年12月12日木曜日

『チェルニー30番』も面白い

  先週、『チェルニー40番』を話題にしたが、その後、『30番』も見直してみた。すると、やはり面白い。それはたんなる練習曲集ではなく、そこには「音楽」があるからだ。

 そこで、『30番』に遡って練習してみようと思い、国内で出版されているあれこれの版を見比べてみる。その結果、音楽之友社の新版(https://www.ongakunotomo.co.jp/catalog/detail.php?id=410430)が解説の面で優れていたので、これを用いることにした。

 今、この曲集の楽譜を改めて見直してみると、少年時代に見えた「風景」とはおよそ異なるものが眼前にある。「いったい、当時の自分は何を見ていたのだろうか?」と恥ずかしくなるが、だからこそ、現在、遅ればせながらこの曲集の音楽と向き合い、(当時には絶対できなかったことだが)楽しんでいる。

 もっとも、30番』では出てくる調性が限られているし、和声も極めてシンプルなので、あれこれ「いじって」みたい衝動に駆られる。まあ、それも1つの楽しみ方であろうか。

2024年12月11日水曜日

完全主義者が転向するならば

  音楽のプレイヤーには予めつくりこんでおいたものをパフォーマンスの場できっちり再現したいタイプと、その場の状況に合わせて臨機応変に対応するタイプがいる。そのいずも一長一短であり、どちらがよいかは一概には言えない。

 山下達郎は前者のタイプ、誇り高き完全主義の職人に属するようだが、それは彼の音楽家としての生き方の問題であり、他人がとやかく言うことではあるまい(https://news.yahoo.co.jp/articles/da4f7221fed439079dd8e34914cfa96a1a0d30a3。ファンが「完全さ」に綻びの見える山下をどう評価するかはまた別の問題であるかもしれないにしても)。が、もし、彼がその生き方を変えるつもりがないのならば、そろそろ引退の時期が来たということなのだろうか。もちろん、それを決めるのは本人しかいないわけだが……。

 私は別に山下のファンでもないし、アンチでもない。が、彼のような完全主義者が生き方をいくらか変えてでも音楽を続けるとすれば、それは聴いてみたい気がする。そこにはそれまでの彼にはなしえなかった何かが現れているかもしれないからだ。

2024年12月10日火曜日

丸尾祐嗣 ピアノリサイタル 2024

  今日は「丸尾祐嗣 ピアノリサイタル 2024」(於:兵庫県立芸術文化センター、神戸女学院小ホール)を妻と共に聴いてきた。すばらしかった。

 丸尾さんは1989年生まれの(比較的)若手ピアニスト。ちょっとしたご縁でこの人の存在を知ることとなり、演奏を聴く機会も得、「これは是非、リサイタルを聴かねば!」ということで出かけてきたのである。

 演目は次の通り:

 

前半:ヴォカリーズOp.34-14(丸尾祐嗣編曲),前奏曲 Op.32-3, 前奏曲 Op.3-2「鐘」, エレジー Op.3-1, 絵画的練習曲  Op.39-5, 前奏曲 Op.32-9, 楽興の時 第4番 Op.16-4, 絵画的練習曲 Op.39-4, 楽興の時 第3番 Op.16-3, 絵画的練習曲 Op.39-8,

 

後半:前奏曲  Op.23-4, J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番 BWV.1006よりプレリュード、ガヴォット、ジーグ(ラフマニノフ編曲), 前奏曲OP. 23-4,ピアノソナタ第2番 Op.361931年改訂版)

 

すなわち、「オール・ラフマニノフ・プログラム」である。

 このうち前半ではなかなかに興味深い試みがなされていた。すなわち、上記のようにいくつかの曲集に収められている曲を取り出し、一繋がりの「作品」ようにして丸尾さんは演奏していたのである。このように弾かれると、知っているはずの曲であっても、何か違った風に聞こえてきて、まことに不思議な感じがした。のみならず、個々の曲をこの順序で配列することによって生み出されるドラマが朧気ながら見えるような気がしたのである。そして、こうした試みを可能ならしめる丸尾さんの力量に感嘆させられた(ただし、妻は少し異なる感想を持ったようだ。すなわち、「個々の曲の演奏は魅力的だったけれども、このようなかたちでほとんど切れ目なしで曲を続け様に聞かされると、演奏の密度が濃いだけに些か疲れる。もう少し、息抜きできる部分があったり、単純に楽しめる部分もあったりした方がよかったのではないか」と言うのである。なるほど、確かにこうした意見にも十分頷けるところはある。演奏会プログラムの組み立てというのはなかなかに難しいものである。まさにこれはドラッカーが説く「マネジメント」の領域の問題であり、演奏家各自が経験を積む中で独自のやり方を見出していくしかない)。

 後半の選曲も面白い。最初のバッハ編曲を3曲そろって実演で聴ける機会はそう多くはなかろう。この難編曲を丸尾さんは実に軽やかに魅力的に奏でてみせた。そして、続く前奏曲はまさに続くソナタの「前奏」の役割を果たし、その最後の演目でこの演奏会全体の山場とカタルシスがもたらされたのである(この後半は妻も絶賛していた)。

 丸尾さんの演奏は全くの自然体であり、少なからぬ演奏家にありがちな、音楽によって己の技や力量を誇示しようとする邪気が全く感じられない。ひたすら音楽に集中し、その場で何かをつかみ取りつつ、生ききと音楽を演じているように見受けられる。というわけで、今後、このすぐれたピアニストがどのような音楽を紡ぎ出していくのかに関心がもたれる。

2024年12月9日月曜日

『ネコのムル君の人生観』をとても楽しく読んでいる

  このところホフマンの『ネコのムル君の人生観』(鈴木芳子・訳、光文社古典新訳文庫、2024年)をとても楽しく読んでいる(この新訳のことは2か月ほど前にここで話題にした)。この小説にはすでにいくつか邦訳があるのだが、その1つ(深田甫・訳、創土社、1974年)と比べてみると、この新訳は格段に読みやすい。しかも、懇切丁寧な訳註が章末や巻末にではなく、ほとんどの場合同じ頁にあげられているのもありがたい。些か古風な文体による旧訳にもそれなりに見るべきところはあるものの、今日の読者がまず手に取るべきなのはこの新訳の方であろう。とりわけシューマン・ファンには強くおすすめしたい(《クライスレリアーナ》を弾く人は必読!)。

 

2024年12月8日日曜日

メモ(133)

  20世紀初めに起こった「音楽のオブジェ化」は「音楽のサウンド化」と言い換えることもできよう。それまで音楽の根本にあるのは「歌」であり、聴き手も共に(実際に、あるいは心の中で)歌うことができるものであった。それが「サウンド」となると、共に歌うものではなく、そこにあるものを見つめる(聴く)しかないものになってしまった(ただし、そうした「サウンド」としての音楽の中にも、繰り返し聴くことで「歌」に転化されるものもあり、今日レパートリーとして生き残っているのはそのような作品であろう)。

 

 そういえば、今日はかつて日本があの無謀な戦争にに突入した日である。「当時の状況からして開戦もやむをえなかった」という見方があるのは知っているが、あの戦い方から判断する限り、やはり「無謀だった」だとしか言いようがあるまい。そして、その「ツケ」は現在でも残っている。

2024年12月7日土曜日

「Fauré and more Fauré フォーレ ピアノ五重奏曲 全曲演奏会」

  今日は久しぶりの演奏会。演目が魅力的なので、かなり前から楽しみにしていたが、期待通りであった。それは何かといえば、大阪のザ・フェニックスホールの主催公演「Fauré and more Fauré フォーレ ピアノ五重奏曲 全曲演奏会」である(https://phoenixhall.jp/performance/2024/12/07/22007/)。早々にチケット完売だとのことだが、それも頷けるすばらしい企画であり(ちなみに今年はフォレの没後100年。同じフランス人作曲家のドビュッシーやラヴェルに比べ、日本の演奏会でフォレの作品が取り上げられることは――一部の限られた作品を除き――さほど多いとはいえないだけに、ピアノ五重奏曲をまとめて聴けるというのは、稀有の機会であろう)、演奏も見事だった。

今回の演目でもっとも期待していたのはフォレ晩年の傑作、ピアノ五重奏曲第2番作品1151919-21)である。私はとにかくこの曲が大好きなのだが、今回実演を聴き、改めて「何とよい音楽だろう」と思った。全4楽章のどれもが個性的であり、その配列も巧みである。そして、何よりも胸を打たれるのは、音楽の若々しさだ。作曲当時、フォレは70~72歳であったにもかかわらず、この作品のエネルギーと瑞々しさには驚くべきものがある。そして、今日の演奏は、まさにそうした作品のありようにふさわしいものだった(ピアノがもう少し積極的であってもよかったようにも感じたが、それはそれとしてなかなか魅力的な音楽づくりをしており、今後が楽しみな人である)。

ともあれ、フォレの音楽の魅力をたっぷり味わわせてくれた演奏者、そして、演奏会の企画・運営に関わった方々に心から御礼申し上げたい。

2024年12月6日金曜日

三宅榛名の「元気が出る」文章

  随分久しぶりに三宅榛名(1942-)の『地球は音楽のざわめき』(青土社、1980年)を読む。少年時代に市立図書館で同書を見つけ、手にとってみたが面白かった。とはいえ、当時の私は重度の「現代音楽病」患者だったので、そうした音楽に批判的だった著者の物言いが腑に落ちていたわけではない。しかしながら、その後、時を経て病が癒えたのちに再読してみると、「ああ、なるほど。確かに御説ごもっとも!」と素直に納得できた。その他の点でも同書で著者が述べていることはいろいろと示唆に富む。それゆえ、時折同書を読み返すのだが、その都度、この著者の「元気が出る」文章から何かしら力をもらっている。

三宅の音楽作品も「元気が出る」ものであり、少年時代にLP盤で愛聴していた。そのうち1枚はCD化されていないので、それっきりである。できれば再び聴いてみたいものだ。

You Tubeを検索してみると、三宅の作品でもっとも多くあげられているのは〈赤とんぼ変奏曲〉だった。元々子ども向けに書かれたものなので(ただし、大人が弾いても全く問題ない)、少年少女のあれこれの演奏を聴くことができる(たとえば、次ものなど:https://www.youtube.com/watch?v=f86BXps4xJA

この曲が収められた曲集(『日本のうた変奏曲集 「鉄道唱歌」から「赤とんぼ」まで こどものためのピアノ曲集』、カワイ出版、1984年)の中で私がもっとも好むのは〈鉄道唱歌変奏曲〉だ(https://www.youtube.com/watch?v=WpJenR3dkcU)。やはり元気が出る音楽である(ただし、この音源の演奏は「きっちり」しすぎのような気もする。それは上の〈赤とんぼ変奏曲〉の演奏についても言えることだ)。

2024年12月5日木曜日

『チェルニー40番』を楽しむ

  今日はなぜか『チェルニー40番』が弾いてみたくなり、ぼろぼろの楽譜を取り出してきた。これを習っていたのは今から40年以上も前のこと。そのときはただただ苦痛でしかなかったのに、今弾いてみると実に楽しい。音楽としてだ(それゆえ、きちんと練習し直したいと思った)。

少年時代の私にはその「音楽」がわかっていなかったし、当時の「先生」にはそれを教えるだけの力量がなかった(のみならず、どうすれば弾けるようになるかも教えられなかった)。それゆえ、私にとって長らくチェルニーは忌まわしい存在だったのである。

その後、チェルニーの「教本」以外の作品を知り、この作曲家の偉さがわかるようになりはしたものの、それでも教本に再び目を向けることはなかった。

ところが、今日、「気分は『チェルニー40番』!」ということになり、改めてこの人の偉大さを実感することとなったわけだ。

その中のあれこれの曲を弾き散らかしながら、それが「ピアノ奏法」の教本であるだけではなく、音楽の「定型表現」の教本でもあることを再認識した。学習者はそこに収められた曲を弾けるようになる過程で、同時に音楽の基本的なあり方を自然に身につけることになるのだ。ただし、初学者にとっては、そう指導することができる教師がいるという前提の下で(チェルニー教本の評判の悪さは、その中身よりも、むしろ、その真価を伝えることができない「ピアノ教師もどき」のせいなのではなかろうか? もちろん、言うまでもないが、チェルニーをきちんと指導できるすばらしいピアノ教師も少なからずいることだろう。私も少年時代にそうした教師に出会いたかった)。

2024年12月4日水曜日

妙なきっかけで

  昔々、少年時代に私がはじめて伝統邦楽への関心を何かしら抱いたのは、今にして思えば奇妙なきっかけだった。つまり、邦楽自体を聴いた結果ではなく、武満徹の《ノヴェンバー・ステップス》で使われていた尺八の音に心惹かれ、そこから尺八本曲への興味が生じたのである。まあ、これも仕方ないことかもしれない。というのも、当時の私には他に伝統邦楽に触れるきっかけなどなかったのだから(中学校の音楽の時間に鑑賞教材としてそうした音楽に触れたはずなのだが、そのときには何も感じなかった)。そして、私同様、 《ノヴェンバー・ステップス》経由で邦楽への耳を啓かれた人は存外少なくないのではなかろうか。

 私より下の世代の人たちの場合、音楽科教育で伝統邦楽がもっと積極的に取り上げられるようになっているものの、そのことで邦楽に関心を持つ人は増えたのだろうか? この点については大いに興味がある。

2024年12月3日火曜日

伝統邦楽の引力

  1つ違いの私の兄はポピュラー音楽を好んで聴いてきた人であり、そのために少年時代、クラシック音楽派の私とは諍いが絶えなかった。が、その間に私は知らずしらずのうちにいろいろなポピュラー音楽に馴染むこととなり、今となってはまことにありがたいことだったと思っている。

 その兄が最近くれたメールの中に、能や文楽を楽しんでいるとあった(前者に関しては、金沢には宝生流の伝統があり、立派な能楽堂もある。私も学生時代に帰省したときにはしばしばそこに出かけた)。が、その文面を読み、「なるほどねえ」と思うことはあっても、不思議に感じることは全くなかった。かく言う私も近年、文楽に大感動している。

 兄にせよ、私にせよ、「洋楽」に身を浸して生きてきたわけだが、その2人が還暦直前の齢にして伝統邦楽にも魅了されているというのは、なかなかに面白いことである。安直に「DNA」などという言い方はしたくない(し、そもそも、こうした語の使い方は不適切だと思っている)が、やはり、日々の暮らしの中で蓄積していた何かが伝統邦楽への共鳴をもたらしたのだろうか?

2024年12月2日月曜日

ウーリヒの『シューマン・ピアノ曲全集』を聴き始める

  以前話題にしたフローリアン・ウーリヒの『シューマン・ピアノ曲全集』のCDがやっと届いたので聴き始めている。いくつかの作品を聴いてみたが、試聴したときに感じた通り、演奏の質はなかなかのものだ。というわけで、当分はこれで楽しめそうである(というわけで、シューマン・ファンには強くお薦めしたい)。

 シューマンはメジャーな作曲家であり、多くのピアニストが好んで弾いているが、作品の取り上げ方にはかなり偏りがある。すなわち、ピアノ曲に創作が集中していた初期作品の中の限られたものや、後の時期の12の作品はやたらに弾かれているが、それ以外のものはそうでもない。そこにはそれなりによい作品が含まれているのに、もったいないことだ。

 それゆえ、そうしたシューマンの「あまり弾かれないピアノ曲」を聴きたければ、結局録音を聴く(か、さもなくば、譜面を眺めて頭の中で音を鳴らすか、ピアノで音を拾ってみる)しかない。その意味で、ウーリヒの全集はまことにありがたい存在だ。

 実のところ、これはシューマンのピアノ曲に限ったことではない。演奏会で聴きたくても聴けない作品は数多あるわけで、そのことに不満を抱いている聴き手はそれなりにいるのではなかろうか。

2024年12月1日日曜日

今日から師走

  今日から師走だ。全く月日の経つのは早いもの。1年のうちで早春に次いで好きなのがこの時期なのだが、今年は何かとバタバタしていて、気がついたら年が明けているということになりそうだ。

 それでも、今月は楽しみにしている演奏会が2つある。感想は聴いたのちに述べることにしたいが、いずれもピアノ絡みで、1週間のうちにその2つが催される。普段の私ならば面倒くさいと思い、そんな短いスパンで出かけることはまずないのだが、この場合はそうではない。それだけ楽しみにしているということだ。

 毎年この時期に感じるのは、「砂時計の残りの砂がどんどん減っていっていることだなあ」ということである。そして、そのつど、残りの時間でできること、そして、すべきことを考える。私の場合、2つの課題は必ずこなしたいと思っており、あとは「できればラッキー」くらいのつもりでいる。が、今年はほとんど何もできていないので、来年こそは。

 

 ところで、年末といえば、ベートーヴェンの「第9」だが、いつも同じではつまらないので、私はしばしば他の作曲家の「第9」を聴くことにしている。もちろん、そうなると選択肢はかなり限られてくるが、それでもよい。今年は誰がよいだろうか。

 もっとも、そうは言いつつも、一生のうちに一度はベートーヴェンの「第9」の合唱に参加してみたいと思っている。その機会はいつ訪れるだろうか。