2024年12月31日火曜日

2024年大晦日の雑感

  今日で2024年も終わりだ。今年は大きな変化のない穏やかな1年だったと思う(仕事にも大きな変化はなかった(恥))。こんな世の中だけに、ありがたいことである。が、私個人に関しては、いつまでも安穏としてはいられないとも強く感じている。


 先日、私の家族、そして、親しくおつきあいさせていただいている朱喜哲・呉多美ご夫妻と昼間にプチ忘年会をした。朱さんはプラグマティズム哲学の研究者であるとともに一般企業でも活躍する「文武両道」ならぬ「理実両道」(という言葉を今、思いついた)の人であり、呉さんは自身の演奏に留まらないさまざまな活動を繰り広げるピアニストである。それだけに私もいろいろと教わるところが多い。が、その席では難しい話ばかりしていたわけではなく、皆で和気藹々と四方山話に花を咲かせたのだった。ありがたいことである。


 ありがたいといえば、森本恭正さんとの出会いもまさにそうだ。積極的に他人と交わりたいとは思わず、その努力もしない私に、森本さんはメイルをくださり、以来、多くのやり取りをしている。その何とも刺激的な内容は得てして「オフレコ」ものだが、多くの示唆をそこで受けており、それは来年以降の私の仕事に反映されることだろう。というわけで、この出会いにも感謝である。

 

 娘が楽しみで小説を書いていることは以前話題にした(サンプルはこちら:https://privatter.net/p/11322571))。来年早々に京都で行われる文学フリマにも新作を携えて参加するようだが、とにかく楽しそうなので私も心が温まる。

 

 その娘は「note」というサイトで文章を綴ってもいる(https://note.com/jolly_dill136)。誰でも参加できる場なのだが、これはなかなかよさそうだと思ったので、私も来年は利用してみたい。このブログで書いているのとは異なる、もう少しハードな文章を載せるつもりだ。最初のネタは「新音楽について」(いわゆる「現代音楽」の中のある種の音楽について、それが従来のクラシック音楽とは何が異なっているのかを、『黄昏の調べ』とは些か異なる視点から論じる)である。乞うご期待。

2024年12月30日月曜日

今日の気分はショパン

  今朝ラジオをつけると、ショパンの第3ソナタが聞こえてくる。しばらく耳を傾けていると、なかなかよい演奏に思われた。そこで最後まで聴き、演奏者を確認すると、果たしてマリア・ジョアン・ピレシュだった。納得。一日の始まりからよい音楽が聴けると気分がよい。

 すると、すっかり「気分はショパン」になってしまい、次におよそ異なるタイプのピアニスト、サンソン・フランソワの録音で同じ曲を聴いた。これもやはりすばらしい。この人の演奏は演奏解釈として「正しい」とか「正しくない」とかいったことを全く気にさせない。何を弾こうとフランソワの音楽になってしまうからだ。そして、そこには「ああ、この人はこう弾くしかなかったのだろうなあ」と思わせるだけの異様な説得力がある。

 だからだろうか、このフランソワの演奏にそうしょっちゅう触れたくはない。刺激が強すぎるのだ。が、こうして久しぶりに聴くと、録音だけに何がどうなるかはわかりきっているはずなのに、その都度感動を新たにする。

 

 あのメンデルスゾーンがこんな曲を書いていたとは……。オドロキ: https://www.youtube.com/watch?v=DohohDkVdiw

 


2024年12月29日日曜日

メモ(136)

  音楽はコミュニケーションの場である。たとえ1人で音楽を奏でたり、聴いたりしているときでもそうだ。自分が向き合う音楽は「他者」であり、それとのつきあいが音楽行為の核心を成す。私はそうした音楽なるものに少年時代から魅せられ続け、今に到る。

 だが、今になって思うのは、「自分は現実の人間(関係)が苦手だからこそ、音楽にのめり込んだのではないだろうか?」ということだ。私は音楽を通して、眼前にはいないがどこかにいるはずの他者とのコミュニケーションを取ろうとしたのではなかろうか。

 もちろん、私にとってさほど多くはない現実の人間との関係を築く上でも音楽は役に立ってくれた。もし、音楽との出会いとつきあいがなければ私の人生はさぞかし悲惨なものになっていたことであろう。

 もっとも、反面、音楽というものは扱いのなかなかに難しいもので、容易に他者との間に壁をつくりあげてもしまう。「音楽とは無条件に善なるもの」なのではなく、使い方次第でとんでもない結果も招きかねない劇薬である。が、それだけにその「うまい」使い方を人はそれぞれに見出す必要があろう。実際に音楽との関わりの中で。

 

2024年12月28日土曜日

今日もコープランドの話題を

  今日もコープランドの話題を。

 彼は自作を達者に弾きこなせるピアニストでもあった。ピアノ協奏曲から室内楽や歌曲におよぶ自作のあれこれに見事な録音が遺されている(昨日取り上げたピアノ四重奏曲もその1つ)。

 独奏曲では《ピアノ変奏曲》(1930)の名演がある(https://www.youtube.com/watch?v=rq5ABVYDY04。なお、この管弦楽版の自作自演もある:https://www.youtube.com/watch?v=fBLRYB9p9Y8)いっそのことピアノ・ソナタ(1939-41)や大作《ピアノ幻想曲》(1955-57)も録音しておいて欲しかった。が、《変奏曲》の自演を聴けるだけでも感謝したい。

 米国のピアノ・ソナタといえば、サミュエル・バーバーの名曲は今日ではこの国でも普通に聴けるようになったが、コープランドのものはそうではない(アイヴズは東京では実演で聴けるのかもしれないが、その他のところではどうなのだろう?)。これが近場で聴けるのならば、私は喜んでその演奏会へ出かけたい。

 

 ところで、武満徹の名曲《地平線のドーリア》(1966) の演奏会での初演を指揮したのが他ならぬコープランドだった。きっとよい演奏だったことだろう。録音があれば聴いてみたいものだ。

2024年12月27日金曜日

コープランドのピアノ四重奏曲

  今朝、出かける前にコープランドのピアノ四重奏曲(1950 )年を聴いたが、これがまた何ともよい曲だった(次に挙げるのは手持ちのCDの演奏とは異なる音源だが、楽譜が見られる:https://www.youtube.com/watch?v=nKa_9CMg4OU&t=10s)。この透明感が何とも言えないし、最後まで聴き手を引っ張って行く力は見事だ。やはりコープランドは偉大な作曲家である。

 このコープランドの影響を(も)バーンスタインは受けているが、両者には大きな違いがある。すなわち、前者にはよい意味での「節度」があるのに対して、後者はいわば何でも詰め込みすぎるのだ。まあ、それが面白いといえばいえる(し、事実、《ミサ曲》はその点で比類のない作品となっている。それにしてもバーンスタインという人はいろいろな面で良くも悪くも貪欲な人だ)が、私はコープランドの「節度」の方にいっそう好感を覚える(が、バーンスタインの曲も嫌いではない)。

2024年12月26日木曜日

昨日の話題のエコー

  昨日話題にした「ピアノ講師」の何とも旧態依然たる心性だが、それはこの国の種々の芸事の師弟関係にあったものが西洋音楽の世界でも受け継がれたものだろう(この点についてはすでに中村紘子その他が指摘している)。

だとすると、この国の西洋音楽は二重の意味で「日本化」されていることになる。1つは今述べたような心性の面で、そして、もう1つは「言語」の面で。

後者の面は必ずしも否定的にのみとらえるべきことではない(そのことは拙論「西洋音楽の日本語的演奏について ――あるいはクレオール語としての日本的西洋音楽――https://www.jstage.jst.go.jp/article/daion/62/0/62_58/_article/-char/ja)で述べた)が、前者の面は速やかに改善を図るべきだ。これは個人任せにしていても難しかろうから、大学や高校などの音楽教育機関が率先して取り組んだ方がよい問題であろう。

 

今年演奏会に出かけた回数を数えてみたら、9回だった。自分が本当に聴きたいもので、(TPOなどの)聴きにいける条件が揃っていたのが、これだけしかなかった、ということである。

もう少し若い頃には、多少無理をしてでも、もっと演奏会に出かける意欲があった。が、歳を取るごとに、それも次第に減退していく。 もちろん、音楽が嫌いになったわけではない。むしろ、昔よりも今の方が格段に楽しめているくらいだ。が、その「楽しみ」の場が演奏会場ではなくなっていった、ということである。

さて、来年はどうなることであろうか。願わくば、上記の条件が揃う演奏会に1つでも多く出会えますように。やはり実演でなければ味わえない類の感動があるのは確かだから。

 

 

2024年12月25日水曜日

オドロキ……とはいえ

  いや、まだこんな「ピアノ講師」がいるなんて……:https://news.yahoo.co.jp/articles/5d163082efa96c73f9f865a95135bc66cfb9b8ce

今や衰退の一途を辿るクラシック音楽業界なのに、自分で自分の首を絞めるようなことをしているということは、その自覚がないのであろう。この手の人種は絶滅寸前だと思っていたのだが、「その年齢はまだ40代には届かないといったところ」の比較的若い人がこうなのだとすれば、まだまだ他にもいるのだろうなあ。

 そこで気になるのは、そうした教師個人の資質もさることながら、むしろ、そうした人を生み出す「土壌」の方である。ほぼ間違いなく、件の「ピアノ講師」は自分の師からも同じように扱われていたはずだ(「いじめ」や「児童虐待」の被害者がのちに加害者になってしまうことがあるのと同様に)。「無から有は生まれない」のである。そして、土壌改良が成されない限り、同じことは繰り返されるだろう。

 なお、付言しておけば。こうした業界の体質改善が全くなされていないわけではない。たとえば、受験生へのレッスンを教員に禁じている大学もあるのだ(私が尊敬する中野慶理先生はそのルールを厳格に守っておられた)。が、先に挙げた記事のようなものが書かれるということは、まだまだ「こっそり」いろいろなことをやっている人もいるということなのだろうか。だとすれば、残念なことだ。

 

2024年12月24日火曜日

年中行事としての「第9」

  この時期はベートーヴェンの「第9」が方々で演奏されていることだろう。これはもはやこの国の「年中行事」のようなものであり、聴き手もその脈絡の中で――「今年も1年間おつかれさま。思えばいろいろなことがあったなあ」といったような感慨を浮かべつつ――この作品を聴いてしまう。

いや、「作品を聴く」という言い方は正しくないかもしれない。何かを聴いていることに違いはないのだが、そこには多分に聴き手のいろいろな思いが投影されているのではなかろうか。

 だが、それでもよいではないか。この行事に参加することによって何かしら充足感が得られるのならば。音楽は作曲家の言わんとすることを聴き取ることだけのためにあるのではないのだから。

2024年12月23日月曜日

窓の大きさ

  愛犬の散歩をしていると、近所で古い家が壊され、その後に新しい家がどんどん建てられているさまが目に入る。世代交代というわけか。それにしても、これだけ不景気なのに、よくもまあ次々と。「『一寸先は闇』の世の中で長期ローンを組むなど、何と剛毅な!」と他人事ながら心配にもなる。それだけこの国に「持ち家」や「土地」というものに対する信仰が未だに根強くあるということなのだろうか。

 それはさておき、そうした新築の家を見ていると、1つ気になることがある(精確に言えば、妻に言われてはじめて気がついた)。それは何かといえば、「窓」の小ささだ。どの新しい家も(妻や)私などの感覚からすると小さすぎるし、数も少なすぎる。自然光がほとんど入らないようなつくりなのだ。自分ならばそんな家には住みたくはないが、「多勢に無勢」「衆寡敵せず」である。それが昨今のモードなのだろう。

 とはいえ、いらぬお世話ながら、つい、こう考えてしまう。つまり、「そうした窓の家で生まれ育つ子どもには、何かしら影響があるのではないだろうか?」と。小さくて数少ない窓の家では、外から家の中が見られることはないが、逆に中から外のこともあまり見えない。すると、そのことが子どもの「心の窓」のありように、ひいては対人関係にも何かしら反映されるのではないだろうか?

 もちろん、新しい家の窓がそうしたかたちを取るのにはいろいろと現実的な理由があるのだろうし、そのこと自体をどうこう言うつもりはない。が、その違いが何をもたらすのかが、ふと気になったわけだ。

2024年12月22日日曜日

エドゥアルト・シュトイアマンの没後60年

  今更だが、今年はエドゥアルト・シュトイアマン(1892-1964)の没後60年だった。彼はブゾーニ(今年没後100年)にピアノを、そしてシェーンベルク(今年生誕150年)に作曲を学んでおり、彼らの音楽を見事に演奏したピアニスト・作曲家である。

 残念ながら録音はそれほど多くはないが、シェーンベルクのピアノ独奏曲全集の録音は今なお余人の追随を許さないものである。また、ブゾーニの作品でもLP1枚出しているが、そこでの演奏もすばらしい(そのうちの1曲を:https://www.youtube.com/watch?v=UjBCBeiUCy8)。

2024年12月21日土曜日

小品の演出法

  今日もギーゼキングが奏でるメンデルスゾーンの無言歌に聴き入ってしまった。こうした小品をサラリと弾き、聴き手を魅了するのはそう簡単なことではあるまい。そこには大曲をこなすのとは別の演出法が必要だ。

 その習得には、よき手本の真似もさることながら、やはり聴き手、それも学校の教師、コンクールの審査員や音楽評論家などとは異なる普通の聴き手の反応から学ぶことが欠かせまい。

 

 歴史の中に埋もれた数多の小品。その中のある曲は、譜面(ふづら)がたわいもないものに見えたとしても、かつて作曲者の手によって魅力的に奏でられ、聴衆をうっとりさせたり、熱狂させたりしたかもしれないのだ。だとすると、今日、そうした「埋もれた作品」を掘り出して演奏する者にはたくましい想像力が求められよう(そして、実のところ、これはどんな作品の楽譜に対しても言えることだ)。

2024年12月20日金曜日

IMSLPにケクランの『管弦楽法概論』が

  IMSLPにケクランの『管弦楽法概論』(1954-59。全4巻、1500頁超の大著)がアップされていた(https://imslp.org/wiki/Trait%C3%A9_de_l'orchestration_(Koechlin%2C_Charles))。以前から中身が気になっていただけに、これはありがたい。

 同サイトには他にもケクランの音楽理論書が何冊かあげられている。『和声概論』の第3巻(課題の解答編)と『フーガ概論』が欠けているが、そのうち誰かがアップするだろう。

 

 昨日話題にしたレスピーギだが、全音楽譜出版社からピアノ曲集が2冊出ている。よくぞ出してくれたと感謝したい(残念ながら、彼のピアノ曲の中でもっとも優れていると思われる《グレゴリオ聖歌による3つの前奏曲》は収録されていないが)。

 レスピーギは管弦楽法の大家だが、そのあまりに輝かしい書法には、時折恐怖に近い感情を覚える(同国のニッコロ・カスティリオーニ の管弦楽曲にも同様なことを感じる)。

2024年12月19日木曜日

「シェーンベルク・イヤー」ももうじき終わる。が、

  「シェーンベルク・イヤー」ももうじき終わる。が、私にとっては毎年が「シェーンベルク・イヤー」なので、とにかく彼の作品を聴き、ときには下手でも自分で弾いてみて、楽譜を眺め続けることに変わりはない(シェーンベルクと同年生まれのアイヴズについても全く同じことが言える)。

 もっとも、「聴く」のはもっぱら録音によっているので、あれこれの作品をやはり実演で聴いてみたいとは思っている(これまでに何曲か実演に触れることはできたが……)。管弦楽曲については東京以外のでは地なかなかそうした機会は得られまいが、室内楽曲ならば可能性はあろう。その場合、もっとも聴いてみたいのは《弦楽三重奏曲》作品45だ。ヴェーバーンやベルクなどの室内楽曲と組み合わせたプログラムの演奏会を近場で誰かやってくれないかなあ。

 

 あるときからNHK-FMで「クラシックの庭」という番組を時折聴いている。ラジオのスウィッチを入れ、そのときにたまたまかかっていた音楽気に入ればが聴き続けるし、そうでなければ止めてしまう。まあ、「出たとこ勝負」というわけだが、これがなかなかに楽しい。

 いつも番組の途中から聴いているのでオープニングのテーマ曲は知らないが、エンディングはレスピーギのピアノのための《6つの小品》(1903)第1曲〈甘美なヴァルス〉である(https://www.youtube.com/watch?v=hYffdSe4gpM)。私がこの曲をはじめて知ったのは例によって金澤攝さんの演奏によってであり、今から40年近い昔のことだ。当時は完全に埋もれた作品だったが、今や国内版の楽譜もあり、普通に弾かれる曲になっている。

2024年12月18日水曜日

心の琴線に触れる「無言歌」

  私にとってメンデルスゾーンは今ひとつ馴染みがたい作曲家だった。なるほど、ヴァイオリン協奏曲やいくつかの交響曲、そして、弦楽八重奏曲や《夏至の夜の夢》などにはただただ感服する。が、そのことと自分にとっての「近しさ」は別物だ。だから、それらの作品も聴くのはごく稀でしかなかった(ただし、そのときには大いに楽しんでいる)。

ところが、このところ必要があってメンデルスゾーンのピアノ独奏曲をあれこれ聴いていると、心の琴線に強く触れるものがあった。それは一連の「無言歌」である。「古典主義」的ロマン派作曲家メンデルスゾーンのピアノ曲の中でもっともロマン派に近いのがこれであろうが、とにかく、素直に「ああ、いいなあ」と思いつつ聴けるのだ。

メンデルスゾーンはピアノの名手であったらしいが、それにもかかわらず、ピアノ曲には大曲がほとんどないし、とくにこだわりのある曲種もあまりなかったようだ。その中で「無言歌」は出版されたものとしては8集、48曲も書いているのだから、よほど愛着があったのだろう(彼は大金持ちの家に生まれており、楽譜の売れ行きを気にする必要もなかったので、作品の「需要」に応じたわけでもなかろう)。

 さて、現代の作曲家が「無言歌」を書くならば、どのようなものになるのだろうか?

2024年12月17日火曜日

メモ(135)

  人が物心ついたときには、すでに何らかの言語をある程度は身につけている。このことは音楽についても言えよう(音楽を「言語」に喩えるのは、この意味では適切であろう)。自分が生まれ育った環境に属する音楽の様式を、いつの間にか人は大なり小なり自然に身につけてしまう。そして、その様式を通して既存の音楽、のみならず、その他の物音をも聴いてしまう(メシアンにとっての鳥の鳴き声のように)。

すると、無垢の音、人によっていかなる意味づけもされていない音などというものは存在しえないことになる。人にできるのは、あくまでも「初期設定」に上書きし、自己の経験を更新することだけである。「音楽が生まれた原初状態」なるものをいくら想定したところで、初期設定が取り除かれるわけではない。

にもかかわらず、そのような「ファンタジー」が語られるとすれば、おそらく、既存の音楽文化に対する閉塞感や倦怠感のなせるわざだろう。だとすれば、そうしたファンタジーにもそれなりの意味はあろう。結果としてそこから新たに有意義な音楽実践が生まれるのならば。

だが、そのファンタジーはあくまでも実践の結果から正当化されるものであって、それを絶対の真理のようなものとみなすとおかしなことになろう。

 

2024年12月16日月曜日

AIによる作曲はどうなるか?

  現在、AIがさまざまな領域で用いられているが、その波は作曲にも及んでいる。が、うかつにも私はそのことが全く眼中に入っていなかった。今日、森本恭正さんからいただいたメイルでAIによる作曲のことに触れられており、ようやく気づいた次第(全く恥ずかしい)

ともあれ、インターネットで検索してみると、確かに関連する記事がいくらでも出てくる。そして、そうやってつくられたものをいくつか聴いてみると、いかにももっともらしい曲になっていたから驚いた。

おそらく、ちょっとした用途での「使い捨て」レヴェルの曲ならば現在のAIでもつくれるだろうし、そうした音楽で商売をしている作曲家にとっては死活問題であろう。が、もっと高水準の音楽創作までAIがこなせるようになるだろうか? これは注視すべき問題である。そうかんたんにはものにはならないと予想されるが、さりとて全く不可能だと断言もできない。さて、どうなることやら(なお、ある種の(「すべての」ではない!)「現代音楽」作品ならば、今のAIでも十分もっともらしいものがつくれるような気がする)。

作曲家がAIに対抗するには、生身の人間でないとできないことをやるしかあるまい。そして、その1つは、おそらく、「作曲家の自作自演」であろう。20世紀における芸術音楽の「作曲」と「演奏」の分離は双方に悪しき影響をもたらしてきたが、その回復はこのAI問題においても大きな意味を持ちうるのではないだろうか。

2024年12月15日日曜日

メモ(134)

  人には究極の真理など知りようがない。が、それを努力目標とすることはできるし、そうであってこそ「よりよい」生がその都度実現されうる。

 人が手にしうるのは「暫定的な=改訂されうる」真理であり、それは「有用性」と言い換えられよう。

 真理が「暫定的な」ものであればこそ、異なる信仰やイデオロギーが並存しうる。が、それにはあくまでも「暫定性」の自覚が欠かせない。「絶対(究極)」の真理を特定の人(人々)や集団が独占しようとすることは許されない。人にはそんなことは無理なのだ。そうした自覚があれば、世の宗教戦争やイデオロギー闘争はなくなりはしないにしても、随分減るだろうに。

2024年12月14日土曜日

『ソナチネ アルバム』もまた面白い

  今日は恩師、松本清先生から『ソナチネ アルバム』(https://sheetmusic.jp.yamaha.com/products/4947817251927?srsltid=AfmBOoosdWjpcflG2cHy6BWVTPNOvJ61po2JPxfYeUeikbVT6ELn4AaX)をお送りいただいた。このアルバムはピアノ初学者が手がける2巻の同題の曲集から取捨選択されたもので、先生が校訂・解説を担当している。楽譜本文中には形式分析や演奏法に関する有益な書き込みもある。ともあれ、まことにありがたいことだ。

 そこに収められた数々の「ソナチネ」にお目にかかるのは随分久しぶりのことだ。が、いくつかの曲を弾いてみると実に面白い。『チェルニー30番』を話題にしたときと同様なことが、今回も起こったのである。すなわち、少年時代には見えなかったものが見え、聞こえなかったものが聞こえるのだ。それは以前よりも読譜力が向上したことと、作品の「音楽的背景」がわかるようになったことによるものだろう。それにしても、あの「ソナチネ」がこんなにも面白いとは……。ちょっとした音の動きや和声の変化の中に数々のドラマがあり、弾いていたわくわくするのだ(これはやはり、聴くよりも弾くことで味わえるものだろう)。

 まあ、才能のある子どもならばすぐにわかったことを還暦に近い大人が今更ながらに面白がっているわけで、つくづく己の非才に呆れるばかり。だが、遅ればせながらも、かつてあまり楽しめなかったものを楽しめるようになったというのは幸せなことだとも思う。というわけで、この曲集をとうの昔に卒業したと思っている方々にも再見をお勧めしたい(楽譜は上記のものを!)。

2024年12月13日金曜日

珍しくも学校教育の話題を

  次の記事を読み(https://news.yahoo.co.jp/articles/e86868cf0eda32d5081fc43e7aa5f476543b0e28

、ふと、昔のことを思い出す。今から30年以上も前のことだが、私は1年ずつ2回、中学校の臨任講師をしたことがあり、当然のように部活も担当させられた。が、2つの学校では部活への教員の関わりが大きく異なっていたのだ。

 1つめの学校は田舎にあり、良くも悪くも「昔風」だった。そこでは教員は勤務時間後も生徒の部活を最後まで見届けることが義務づけられており、場合によっては休日出勤(サービス残業)もあった(当時はまだ週休1日であり、たまたま校務分掌による休日出勤もあったりして、1か月全く休みがなかったときも。ただし、いわゆる「夏休み」がまだ健在だったので、その埋め合わせはなされたと思っている)。他方、2つめの学校は県庁所在地にあり、部活は「ボランティア」という位置づけだった。それゆえ、部活に積極的に関わるのも、関わりは必要最小限度に抑えて日々の活動を生徒に任せきりにするのも、教員が自由に選択できたのである(そのおかげで、私は早々に帰宅して大学院の受験勉強に励むことができた)。

 だが、いずれにせよ、学校に部活があることに対しては何ら疑問を抱かなかった。部活があるおかげで学校に行く意義を見出す生徒もいるはずだと思っていたのである。しかし、今は違う。学校から部活は切り離すべきだと確信している。さもなくば、ただでさえ日々の業務で忙しい学校の教員の負担があまりに大きくなりすぎるし、そのことは教育の質を下げることにも繋がるからだ。

なるほど、部活が学校教育の中でしかるべき意義を持っていた時代もあったろう。そして、今でもそうした場はあるのかもしれない。が、いろいろな問題を曖昧にしたままで善意の(あるいは不本意に関わらざるを得ない)教員の犠牲の上に部活が営まれているのだとすれば(まあ、中には部活の方が好きな教員もいるようだ――事実、昔のことだが、「吹奏楽の部活指導をしたいから教員になった」人がいるという話を耳にしたことがある――が、そうした人は授業やその他の面でも生徒への対応に力を傾注すべきだ)、一度制度設計をきちんとし直すべきであり、それができないのならば(たぶん、無理だろうから)、部活は完全に外注にすべきだろう。

2024年12月12日木曜日

『チェルニー30番』も面白い

  先週、『チェルニー40番』を話題にしたが、その後、『30番』も見直してみた。すると、やはり面白い。それはたんなる練習曲集ではなく、そこには「音楽」があるからだ。

 そこで、『30番』に遡って練習してみようと思い、国内で出版されているあれこれの版を見比べてみる。その結果、音楽之友社の新版(https://www.ongakunotomo.co.jp/catalog/detail.php?id=410430)が解説の面で優れていたので、これを用いることにした。

 今、この曲集の楽譜を改めて見直してみると、少年時代に見えた「風景」とはおよそ異なるものが眼前にある。「いったい、当時の自分は何を見ていたのだろうか?」と恥ずかしくなるが、だからこそ、現在、遅ればせながらこの曲集の音楽と向き合い、(当時には絶対できなかったことだが)楽しんでいる。

 もっとも、30番』では出てくる調性が限られているし、和声も極めてシンプルなので、あれこれ「いじって」みたい衝動に駆られる。まあ、それも1つの楽しみ方であろうか。

2024年12月11日水曜日

完全主義者が転向するならば

  音楽のプレイヤーには予めつくりこんでおいたものをパフォーマンスの場できっちり再現したいタイプと、その場の状況に合わせて臨機応変に対応するタイプがいる。そのいずも一長一短であり、どちらがよいかは一概には言えない。

 山下達郎は前者のタイプ、誇り高き完全主義の職人に属するようだが、それは彼の音楽家としての生き方の問題であり、他人がとやかく言うことではあるまい(https://news.yahoo.co.jp/articles/da4f7221fed439079dd8e34914cfa96a1a0d30a3。ファンが「完全さ」に綻びの見える山下をどう評価するかはまた別の問題であるかもしれないにしても)。が、もし、彼がその生き方を変えるつもりがないのならば、そろそろ引退の時期が来たということなのだろうか。もちろん、それを決めるのは本人しかいないわけだが……。

 私は別に山下のファンでもないし、アンチでもない。が、彼のような完全主義者が生き方をいくらか変えてでも音楽を続けるとすれば、それは聴いてみたい気がする。そこにはそれまでの彼にはなしえなかった何かが現れているかもしれないからだ。

2024年12月10日火曜日

丸尾祐嗣 ピアノリサイタル 2024

  今日は「丸尾祐嗣 ピアノリサイタル 2024」(於:兵庫県立芸術文化センター、神戸女学院小ホール)を妻と共に聴いてきた。すばらしかった。

 丸尾さんは1989年生まれの(比較的)若手ピアニスト。ちょっとしたご縁でこの人の存在を知ることとなり、演奏を聴く機会も得、「これは是非、リサイタルを聴かねば!」ということで出かけてきたのである。

 演目は次の通り:

 

前半:ヴォカリーズOp.34-14(丸尾祐嗣編曲),前奏曲 Op.32-3, 前奏曲 Op.3-2「鐘」, エレジー Op.3-1, 絵画的練習曲  Op.39-5, 前奏曲 Op.32-9, 楽興の時 第4番 Op.16-4, 絵画的練習曲 Op.39-4, 楽興の時 第3番 Op.16-3, 絵画的練習曲 Op.39-8,

 

後半:前奏曲  Op.23-4, J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番 BWV.1006よりプレリュード、ガヴォット、ジーグ(ラフマニノフ編曲), 前奏曲OP. 23-4,ピアノソナタ第2番 Op.361931年改訂版)

 

すなわち、「オール・ラフマニノフ・プログラム」である。

 このうち前半ではなかなかに興味深い試みがなされていた。すなわち、上記のようにいくつかの曲集に収められている曲を取り出し、一繋がりの「作品」ようにして丸尾さんは演奏していたのである。このように弾かれると、知っているはずの曲であっても、何か違った風に聞こえてきて、まことに不思議な感じがした。のみならず、個々の曲をこの順序で配列することによって生み出されるドラマが朧気ながら見えるような気がしたのである。そして、こうした試みを可能ならしめる丸尾さんの力量に感嘆させられた(ただし、妻は少し異なる感想を持ったようだ。すなわち、「個々の曲の演奏は魅力的だったけれども、このようなかたちでほとんど切れ目なしで曲を続け様に聞かされると、演奏の密度が濃いだけに些か疲れる。もう少し、息抜きできる部分があったり、単純に楽しめる部分もあったりした方がよかったのではないか」と言うのである。なるほど、確かにこうした意見にも十分頷けるところはある。演奏会プログラムの組み立てというのはなかなかに難しいものである。まさにこれはドラッカーが説く「マネジメント」の領域の問題であり、演奏家各自が経験を積む中で独自のやり方を見出していくしかない)。

 後半の選曲も面白い。最初のバッハ編曲を3曲そろって実演で聴ける機会はそう多くはなかろう。この難編曲を丸尾さんは実に軽やかに魅力的に奏でてみせた。そして、続く前奏曲はまさに続くソナタの「前奏」の役割を果たし、その最後の演目でこの演奏会全体の山場とカタルシスがもたらされたのである(この後半は妻も絶賛していた)。

 丸尾さんの演奏は全くの自然体であり、少なからぬ演奏家にありがちな、音楽によって己の技や力量を誇示しようとする邪気が全く感じられない。ひたすら音楽に集中し、その場で何かをつかみ取りつつ、生ききと音楽を演じているように見受けられる。というわけで、今後、このすぐれたピアニストがどのような音楽を紡ぎ出していくのかに関心がもたれる。