2024年12月17日火曜日

メモ(135)

  人が物心ついたときには、すでに何らかの言語をある程度は身につけている。このことは音楽についても言えよう(音楽を「言語」に喩えるのは、この意味では適切であろう)。自分が生まれ育った環境に属する音楽の様式を、いつの間にか人は大なり小なり自然に身につけてしまう。そして、その様式を通して既存の音楽、のみならず、その他の物音をも聴いてしまう(メシアンにとっての鳥の鳴き声のように)。

すると、無垢の音、人によっていかなる意味づけもされていない音などというものは存在しえないことになる。人にできるのは、あくまでも「初期設定」に上書きし、自己の経験を更新することだけである。「音楽が生まれた原初状態」なるものをいくら想定したところで、初期設定が取り除かれるわけではない。

にもかかわらず、そのような「ファンタジー」が語られるとすれば、おそらく、既存の音楽文化に対する閉塞感や倦怠感のなせるわざだろう。だとすれば、そうしたファンタジーにもそれなりの意味はあろう。結果としてそこから新たに有意義な音楽実践が生まれるのならば。

だが、そのファンタジーはあくまでも実践の結果から正当化されるものであって、それを絶対の真理のようなものとみなすとおかしなことになろう。