2020年5月31日日曜日

ジャン・マルティノンに聴き惚れる

 昨日、適当に選んで聴いた手持ちのCDの演奏が実に素晴らしかった。フランスの指揮者・作曲家のジャン・マルティノン(1910-76)が指揮したラヴェル作品である。まさに過不足のない演奏で、《ボレロ》を楽しく聴けたのは随分久しぶりのことだ。
そこで、昨日今日と他にも何枚かマルティノン+シカゴ交響楽団の録音を聴いてみる。すると、どれも実によい。ビゼーの《交響曲》などは改めて「何と素敵な曲だろう」としみじみと思った。マルティノンはこの楽団とあまり相性がよくなかったというが、それでこれだけの音楽がつくりだせるのだから、指揮者と楽団双方の力量には驚かされる。
マルティノンは作曲家でもあり、作風は穏健だがそれなりの水準の作品をものしている。そのことが彼の指揮者としての音楽づくりにも間違いなくプラスに作用しているようだ。彼の手にかかると音楽の組立てが実に明瞭に示されるが、だからといってたんに分析的であるとか構築的であるとかいった演奏ではない。音楽のありようはあくまでも生き生きとしており、十分にスリリングなのだ。そんなマルティノンが指揮したドビュッシーの演奏を私はこよなく愛する。とりわけ、《管弦楽のための映像》を(これはシカゴ交響楽団との演奏ではない)。

「作曲家」ブゥレーズの作品で私が好ましく感じるのは《主なき槌》くらいまでであり、それ以降の作品はあまりぴんとこない(例外は《エクラ》(1965)だが、これにその後書き足された《ミュルティプル》は好きではない)。が、そのうちそうした作品も楽しく聴けるときがくるかもしれない(と思い、いちおう、「作品全集」のCDは持っている)。
「指揮者」ブゥレーズの録音でも好んで聴くのは概ねキャリア初期のものだ。すなわち、ドメーヌ・ミュジカルでの録音であり、それ以降でもコロンビアでの録音は作品によっては時折聴くものの(その中には高名な《春の祭典》の録音が含まれるが、これも最初の録音の方が私には面白い)、ドイツ・グラモフォンでのものはまず聴かない(何枚かCDを持っていたが、近年手放した)。人生の時間は限られているので、「指揮者」ブゥレーズの「成熟」につきあうだけの余裕は私にはなさそうだ。

2020年5月30日土曜日

「現代音楽の演奏法と聴き方」フォーラムをつくったら……

 ふと思ったのだが、現代音楽作品の演奏法や聴き方について意見交換ができる場をインターネット上でつくったら面白いかもしれない。「あれもこれも」としてしまうと収拾がつかなくなるので、最初は特定の楽器、あるいは声のために書かれた作品に絞った方がよいかろう。
 現代作品には「いったいどうやって演奏したらよいのか?」と考え込まざるを得ないものが少なくない。たとえばピアノならば、多声的に書かれた、しかも普通の意味での拍節を持たないような複雑なリズムやテクスチュアを持つ作品がいろいろある。そうしたものをどう分析し、練習し、弾きこなすかを、具体的な作品の特定の箇所をあげて掲示板上で意見交換するのだ。
 聴き方についても同様。「クラシック音楽」に馴染んだ耳からすればちんぷんかんぷんな「音響」を「こういうふうにすれば楽しく聴ける」という流儀を作品やその特定の箇所について各人が意見を提示し、それを巡って議論を交わす。
 こうした演奏法や聴き方は、インターネット時代以前ならば「企業秘密」であったり、公開されるにしても有料のレッスンや講座で伝授されたり、書籍や雑誌記事で「売られて」いたりしていたものである。が、今や「現代音楽」を含む西洋芸術音楽がどんどん衰退しつつある時代。ならば、情報をどんどん無料で公開し、公の場で議論をすることでその活性化を図った方がよいのではないだろうか(もちろん、これは「現代音楽」に限ったことではない)。
 こうした「フォーラム」は誰に対しても開かれるべきものだが、次の2点を参加者は厳守すべきであろう。すなわち、(1)他者からの意見・批判は真摯に受け止めねばならない。また、他者への意見・批判も真摯になされねばならない (2)匿名、仮名は認めない――この2点である。(1)は生産的な議論を繰り広げるために絶対に欠かせない条件だ。とりわけ後者の点については、決して他者を愚弄・嘲笑するような言辞、あるいは「批判のための批判」は慎まねばならず、あくまでも議論をうまく先に進め、多くの参加者を納得させるようなものの言い方が求められる。また、(2)は(1)を実現するための「保険」のようなものである。また、無責任な「匿名・仮名言論」を排除してインターネット上での言論とコミュニケーションの質を高めることに貢献するという意味もある(ちなみに、このブログを「閲覧者のコメントを許可しない」設定にしてあるのは、匿名・仮名のコメントを排除するためだ。中には貴重なコメントもあるのかもしれないが、私はそれをよりも匿名・仮名言論の排除を優先する)
 ……などと書いているうちに、どんどん話が大きくなってきた。が、もちろん、たとえば私個人がこうしたインターネット上の「意見交換の場」をつくったところで、さほど広がりは持たないだろう。が、1つひとつの場は小さくても、別々に似たようなことを試みる人が増えれば、やがてお互いの場に横の繋がりができて、面白いことになるかもしれない。というわけで、今すぐにというわけにはいかないが、いずれ自分で試してみたいと思っている(「現代音楽」以外の話題を取り上げるかもしれないが)。「我こそは!」と思う方は是非とも試みられたい。

2020年5月29日金曜日

名曲の評価

 今日は昨日の文章の最後に付言したことを少しばかり敷衍しよう(いささかとりとめのないかたちではあるが……)

 「現代音楽」に限らず、音楽史の中ですでに定まっている作曲家や作品の評価というものがある。そうなるにはそれなりの経緯があったのは確かだろう。が、そうした評価は決して不動かつ不変ではない。たとえば、19世紀の作曲家の多くは未だにほとんど現代人には知られておらず、ごく限られた情報の中で物事の評価がなされているわけで、もっと情報量が増えれば、当然、評価のありようも変わらざるを得まい(この点については金澤攝さんが繰り返し力説しているところだ:http://www.spacelan.ne.jp/~kamenaku/ippan/0511usinawaretaongaku.htm)。それゆえ、既存の評価体系を不変の真理とみなすことは誤っている。むしろ、「現時点ではとりあえずある程度は信じるに足るもの」くらいにとっておく方がよかろう。

 また、たとえ一般に評価が高いものであっても、それをすべての人が共有しなければならないというものでもない。もちろん、日々の暮らしの中で他人と評価や価値観を共有した方が都合がよい事柄は少なくないが、少なくとも音楽などの芸術はそうではなかろう。むしろ、多様な価値観が並存する方が芸術の世界は活性化される。

 というわけで、「名作曲家」や「名曲」といったものは、必要に応じて他人の評価を参照することはあっても、最終的には各人が自分で決めるべき事柄だと私は思う。それをせずに既存の評価体系を鵜呑みにすれば、(あまり好きな言い方ではないが)「自己疎外」が生じてしまうとともに、せっかくの「名曲」も自分の中では本当には響かなくなる。

ただし、そうした自分なりの評価もまた不動・不変になってしまうとつまらない。(リアルな人に限らず、過去の文物も含めての)「他者」との対話を通じ、折に触れて己のものの見方、聴き方、感じ方を更新えられるのみならず、そこに残り続けているものの意味も変わってくる。その結果もさることながら、(他者とのコミュニケーションも含む)過程も面白いはずだ(さもなくば、人が音楽についてかくも語りたがるはずもない)。

現代はインターネットによって誰しも容易に情報発信ができるので、使い方次第でこれまでにはなかったような新たな「名曲」の評価、音楽のとらえ方が形成される可能性は十分にあろう(構想に留まりなかなか執筆にかかれない著作『音楽の語り方』ではこの点も見据えて、インターネット上での「音楽の語り方」について1つの作法を提案したいと考えている)。