2021年9月23日木曜日

ルイジ・パレイゾンの没後30年

 今年はイタリアの美学者ルイジ・パレイゾン(1918-91)の没後30年にあたる。ふとこの人のことが気になって調べてみたら、そのことがわかった。気になったのは邦訳書の有無である。すると、驚くべきことに1冊しかない(もはや品切れなので「あった」と言う方が正確か……)。しかも、それは師のクローチェの文章との抱き合わせというかたちだ(もっとも、この編訳書『エステティカ――イタリアの美学 クローチェ&パレイゾン』(山田忠彰・編訳、ナカニシヤ出版、2005年)は良著である)。『美学――形成性の理論Estetica. Teoria della formatività』(1954)などは翻訳があれば読んでみたいと思うのは私だけではあるまい(私にはもはやイタリア語原典から読むだけの気力も時間もない)。このパレイゾンに限らず、イタリア美学に対しては(ウンベルト・エーコやジョルジョ・アガンベンなどの「スター」は別として。ジャンニ・ヴァッティモのような人でさえ『近代の終焉』その他の重要な書が訳されていない)どうも日本の研究者は些か冷淡なようだが、私にはこれがイタリア近現代音楽に対する日本の音楽学者の冷淡さと重なって見えてしまう(たとえば、ジャン・フランチェスコ・マリピエロ(1882-1973)はストラヴィンスキーの同年生まれの巨匠だが、この人が日本で話題になることはほとんどない)。なぜ、そうなるのだろう? これは日本の西洋文化受容の傾向なのだろうか。

 

 別宮貞雄(1922-2012)の自伝『音楽に魅せられて――作曲生活40年』(音楽之友社、1995年)を久しぶりに再読したが、何度読んでも面白い。同書をはじめて読んだのは刊行後すぐのことだが、たまたま図書館で手にとって読み始めたところ、ぐっと引き込まれてしまったことを思い出す。その頃の私は「現代音楽」病が癒えつつあったときで、それだけにその手の音楽が華やかなりし時代に保守的な作風を貫いた別宮の言葉はいちいち胸にしみたものである。そして、それは今でも変わらない。なぜそうなのかといえば、たぶん、別宮の言葉には時代を超えた「真実」が何かしら含まれているからだろう。

その別宮が自らの代表作とするオペラ《有間皇子》 (1963-67)はCDにもなっているのに、まだ聴いていない。それは「日本語のオペラ」に向き合う準備が自分の中ではまだできていないような気がして躊躇いがあるからだ。が、これはいつか是非とも。