2021年10月3日日曜日

メモ(76)

 ヴァレリー・アファナシエフ『ピアニストのノート』(大野英士・訳、講談社選書メチエ、2012年)を読み返している。このまことに特異なピアニストは物書きとしてもやはり個性的だ。その鋭い批評にはなるほどとうなずけることもあれば、首をかしげてしまうところもある。が、いずれにせよ一つひとつの言葉が読み手に突き刺さってくるという点で、この人の演奏と同類のものだと言えよう。

さて、以上は前振り。アファナシエフはたとえばブレンデルのシューベルトに対してなかなかに辛辣である。が、ブレンデルの側でも旧ソ連・ロシアのピアニストにはまことに点が辛い。だが、一般に演奏家が同業者に対して厳しい評価を下すのには無理からぬところがある。というのも、彼(女)らは演奏(performance)において己が与する音楽観、ひいては価値判断の体系を示す(すなわち、遂行的(performative)な)ものである他なく、優れた個性的な演奏家ほどそれは結果として排他的なものたらざるをえない(さもなくば、己の存在理由が怪しくなる)からだ。そして、演奏自体がすでに他者への批評となっている以上、言葉を慎んだり、心にもない美辞麗句を弄したりする理由はなかろう(もっとも、激しい言葉がゆるされるのは、当然、それなりの水準の演奏家に限られよう)。

だが、(いわゆる「評論家」も含む)聴き手にはその必要はない。もちろん、聴き手が何かの音楽、演奏を好むということも、何かの音楽観、価値判断の体系に与することであるわけだが、それに合わない演奏家がいたとしても、それを厳しく論難する必要はないのだし、また、そうすべきでもない。なるほど、自分が好む演奏を称賛するのに、その比較の対象として好まない演奏を俎上に載せることはあってもよいだろうが、その場合でもそれを貶める資格など聴き手にはないはずだ。では、どのような「音楽の語り方」が好ましいのだろうか。それは聴き手自身によってもっときちんと考えられてしかるべき問題であろう。

ところで、私はアファナシエフやリヒテル、あるいはソコロフなどのシューベルトに震撼させられる一方で、ブレンデルのシューベルトにも心惹かれずにはいられない。もちろん、私自身にも「かくあれかし」というシューベルト像はある。が、それを演奏家ほどに突き詰める必要がないわけで、「あれもこれも」ということになってしまう。が、それは決して「何でもよい」ということではない。

 

 アファナシエフが前掲書の中である若手ピアニストに対してまことに辛辣なことを述べているが、その人は2011年、ギドン・クレーメルらと来日予定だった。が、例の震災の影響で予定をキャンセルしている。まあ、それは仕方ない。が、その代役としてやってきたのが他ならぬアファナシエフである(演奏はもちろんすばらしかった)。そのことに対して私は何かしら恩義のようなものを感じずにはいられない(ところで、その本来やってくるはずだったピアニストのCDを「キャンセル」の一件以後に私は購い、聴いていたことがある。が、すぐに飽きてしまい、手放してしまった。そして、その人には今も全く興味がない。……が、もちろん、そのピアニストの演奏を好む人もいようし、それはそれで大いにけっこうなことだと思う)。