2021年10月15日金曜日

メモ(77)

 昔のフリー・ジャズの録音を聴くと、それが時代の産物だったことを強く感じさせられる。1960年代という、さまざまな分野で古いしがらみからの解放と変革を求めたあの時代であればこそ、ああした表現形態が成立しえたのであり、また、それなりに支持されたのであろう(この「出口なし」の現代にふさわしい音楽の表現スタイル――絶望をではなく、かすかにであっても希望を表すようなもの――はどんなものだろうか?)。

もちろん、それはジャズに限ったことではない。他のポピュラー音楽の分野、そして、西洋芸術音楽でも「フリー」への希求があり、それぞれに独自の表現が追求され、時には異分野間でのクロス・オーヴァーが生じてもいる。

そして、クラシック音楽の「演奏」の世界でも、そうした時代の風潮から何かしら影響を受けているはずだ。かつて柴田南雄はジョン・ケージの「不確定性」や即興を取り入れた音楽作品と同時代の演奏スタイルの関連性を指摘しているが、この点はもっと突き詰めて探ってみると面白かろう。

 

一事が万事。こうした詐術は今に始まったことではあるまい。が、こんなものに騙されるとすれば、騙される方にも問題があろう: https://news.yahoo.co.jp/articles/4dc81f1716d9638caa9f89b6e752fef4b883aaf5。いずれにせよ、各人が判断を示せる貴重な機会がもうじきやってくる。

 

昨晩はセロニアス・モンクに聴き耽ってしまった。あの不思議な味わいは他の誰にも真似できない。「ビル・エヴァンズ調」「マイルズ調」「ハービー調」などのプレイは何とか可能であっても……。「モンク調」がさまにならない(どころか、悲惨なできそこないになってしまう)ことと彼の芸風の間には何か関係があり、そこに彼の音楽の秘密を解く鍵があるかもしれない。