2021年10月7日木曜日

音楽家の相関図

 作曲家や演奏家の相互の影響関係、評価や好悪の感情を当人の言葉や作品の献呈・被献呈関係、さらには周囲の人の証言に基づいて相関図にしてみたら面白かろう(その根拠となる発言・証言集を付録として)。すると、ここの音楽家についての意外な一面が見えてくるだろうし、また、音楽史の見え方もいろいろと変わってくるかもしれない。そのためには膨大なデータを集めねばならないし(思えば、金澤攝さんの行っている「発掘作業」はまさにこのためのデータ収集だともいえよう。そういえば、攝さんは作曲家の関係をよく「地図」に喩えている)、そのデータの処理の仕方についても高度な判断が必要とされるだろう。また、1人の人物についても複数の図が必要になる場合もあろう(たとえば、「作曲家」ラフマニノフと「ピアニスト」ラフマニノフの相関図は別にした方が見やすかろう)。それゆえ、そう簡単にできるものではあるまいが、扱う時代や地域、さらには人の範囲を限定して、白地図を少しずつ埋めていくような(すなわち、既知の事柄を整理整頓するのではなく、未踏の地域を探検して記録していくような)感じでやっていけばよかろう。

 

少し前に話題にしたドビュッシーの《ベルガマスク組曲》の不審箇所だが、先日、デュランの全集版を見てみたところ、g#音はそのままで、f音が♮ではなく#で記されていた。まあ、無難な処理である(が、これには疑問が残る。その理由については前に述べた)。そして、さらにヴィーン原典版をも見たところ、まさにここでg音に♮が括弧付きで記されており、校訂者が「この読み方を支持する資料はないが、私はこう解釈する」といったこと(現物が手元にないので、正確な文言ではないが……)が脚註で述べられていた(なお、この版の運指担当がミシェル・ベロフであり、彼が2回目の録音でg♮音で弾いていたのはこれに基づくものだったわけだ)。どちらか一方が絶対に正しいということはない。それゆえ、演奏者は自分で決断しなければならないが、まあ、それはこの場合に限ったことではなく、畢竟、演奏とはそうした「決断」の集積の結果であろう。

 

リヒテル、アファナシエフやソコロフが演奏するシューベルトの録音を聴いていると、あたかもロシア文学を読んでいるような心地がする。そして、それはたぶん、いくつかの面で作曲者が目指した音楽と何かしら違うものになっているように私には思われる。が、作曲者が作品の最良の理解者だとは限らず、演奏者が作品に潜む別の可能性を顕在化させるということは十分にありえよう。そして、リヒテルたちはそれに成功しているようだ(……が、彼らのシューベルト演奏の「重さ」と「深さ」には時折、つきあいきれないと感じることもないではない)。