2021年3月7日日曜日

伊東信宏『東欧音楽夜話――超えられない国境/未完の防衛線』

 先日、伊東信宏さんから新著『東欧音楽夜話――超えられない国境/未完の防衛線』(音楽之友社、2021年)をお贈(送)りいただいた(本当にありがたいことである)。これは同じ出版社から出ている『東欧音楽奇譚』(2018年)の続編であり、その前著同様、まことに刺激的な読み物だ(あまりに刺激的なので、私はすぐに一気読みしてしまい、今、ゆっくりと再読している最中である)。

 全24章の中から章名をいくつか取り上げると、次のようになる――「三輪眞弘+前田真二郎『新しい時代』の蘇演」「ビョークの『ピエロ・リュネール』を妄想する」「挑発:コパチンスカヤとレシチェンコ」「クラヴィコードを触りながら考える」「芸能の地平へ:宇多田ヒカルの彼方」「バルトークと第一次大戦末期の『歴史的演奏会』」「『右ハンドル』とろっ骨レコード」といった具合だ。これだけを見ても必ずしも話題が「東欧」の音楽に限られていないことがわかるが、署名の「東欧」にはたんに地理的な意味だけではなく、「西欧の芸術音楽という中心からはずれたところのもの」という意味合いも込められているのだろう。

 こうした同書はその「ずれたところの」音楽を好む人にとってはたまらない魅力を持つものだろう。が、決して普通のクラシック音楽ファンには近寄りがたいものではない。実際、取り上げられている音楽の少なからぬものは通常のクラシック音楽のレパートリーなのだから。とはいえ、その切り口が普通ではなく、今まで普通に見えた音楽から異世界を垣間見させるような文章なのである。そして、だからこそ、むしろ、普通のクラシック音楽ファンにこそ同書を読んでみて欲しいと思う。それまで知っているつもりでいた音楽の数々が驚きに満ちたものに変わるかもしれないし、また、これまでとは違った音楽の聴き方や見方、さらには音楽に限らない種々の物事の見方や考え方にも何かしら刺激をもたらすかもしれないからだ(昔々、私も著者の『ハイドンのエステルハージ・ソナタを読む』(春秋社、2003年)によって、それまでの自身のハイドン観を一変させられたことがある)。

 なお、巻末の「おわりに」では同書の成立事情に加え、著者なりの音楽観や芸術観の一端が示されており、これがなかなかにずしりと重い(同書を読む人は、まずはこの「おわりに」を先に読んだ方がよいかもしれない)。それには私もいろいろと考えさせられた。が、1つだけ異論がある。それは芸術の役割についてだ。著者は「現代の世界はますます、クリーンに、ますますポリティカリー・コレクトに除菌されてゆき、その内側だけが『世界』だと決めつけられていく」(同書、248頁)という現状認識を示し、それに対して

 

音楽の、そして芸術の役割は、こういう『世界』の外側を想起させることではない   のか? こことは違う『異世界』、このシステムとは異なるオルタナティヴ、現在   強いられているのとは別の関係のあり方、『貨幣』では説明できない価値、そういう  ものを想起させることこそ、芸術の役割ではなかったのか。 

                               (同書、249頁)

 

と述べる。私もこうした考え方には大筋では賛成する者だ。が、1つだけどうしても引っかかるところがある。それは「『世界』の外側を想起させること以外にも芸術の役割はあるのではないか?」ということだ。ここで手短に説明するのは難しいが、この問題には現在執筆中の(ただし、全く出版の当てはない)『音楽の語り方』という著作の中で自分なりの答え方を示したいと思っている。ともあれ、本文の内容のみならず、この点でも『東欧音楽夜話』は私に刺激を与えてくれたわけで、伊東さんには何ともお礼の言葉もなく、ただただ感謝する次第。