2021年2月8日月曜日

メモ(32)

  どのような芸術作品にもそれが生まれ、受け入れられる「背景」なり「土台」なりがある。が、中にはそうしたものと密に結びついている作品もあれば、逆にそこからいくらか距離を置いている作品もあろう。そして、時代の移り変わりの影響を受けやすいのは前者だ。すなわち、ある時代の中で大受けした作品は、それを支える背景が失われてしまうとともにその人気も衰えてしまう、というわけだ。もちろん、後者にしたところで時代の変化の影響を受けないわけではない。そうした作品にもやはり「生まれた時代」の何かが刻印されているわけだから。いずれにせよ、作品の意味・価値とその評価とは何かしらそれを取り巻く状況と結びついているわけで、それを超越した普遍かつ不変の意味などそこにはありえない、ということだ。

 だからこそ、時代の変化の中で埋もれてしまった作品が再び日の目を見るということも起こりうる。たとえば、20世紀のある時期までは名人芸を誇示する「ヴィルトゥオーソ」向け作品は日陰者扱いだった(どころか、ほとんど埋もれていた)が、21世紀の今、再びそれなりに復権している。これは、そうした作品を「埋もれ」させていた要因が取り除かれるとともに、この手の音楽の持つ何かが今の時代の何かと「共振」した結果であろう。ただし、もはや「失われた時」が戻ってくるはずもなく、19世紀のヴィルトゥオーソ向け作品は21世紀には異なる脈絡の中で違ったふうに響き、異なる意味を持つことになる。そして、そこがまさに面白い(と私は思う)し、「埋もれた」作品の「発掘」がたんなる「過去の掘り起こし」に留まらず、新たな文化創造に繋がりうるゆえんだろう。