2020年6月23日火曜日

メモ(6)

  「音楽作品」に何か普遍的な本質を想定するプラトニズムは考え方としては理解できるし、それが音楽の実践において何かしら関わっていることもわかる。が、それ自体を「論」として探求することに意味があるとは私にはどうしても思えない。「音楽作品の存在論」という問題にしても同様だ。
そうした「論」が意味を持つのは、あくまでも音楽作品をめぐる行為を規定するもの(いわば「ゲームの規則」)としてであり、また、ごく限られた条件の中でのことである。言い換えれば、行為のありようと意味を考える上では「音楽作品の本質論」や「音楽作品の存在論」は十分意味を持つし、探求に値する問題たり得る、ということだ(が、そうした背景抜きに一般的かつ抽象的な「論」たらんとするならば、それは擬似問題であるか、さもなくばたんなる知的遊戯でしかあるまい)。