2020年6月3日水曜日

外国語学習法を西洋音楽学習に活かせないだろうか?

 日本語と多くの外国語とでは言葉の抑揚やリズムが大きく異なるのはご存じの通り。日本語は1文字が1拍(モーラ)で語のアクセントも高低に拠り、全体として抑揚が平板であるのに対し、たとえば欧米諸語では数文字が1つの音節(シラブル)をなし、語のアクセントは強弱に拠り、語りの抑揚も日本語より格段に大きい。
 すると、日本語を母語とする者と外国語を母語とする者の間で音の認知の枠組みが大きくことなるのは当然のこと。そこで、外国語学習ではそうした枠組みを学習者の中でつくりあげさせるために「あの手この手」を尽くしており、研究もかなり進んでいる(たとえば、次のものを参照:門田修平『シャドーイング・音読と英語コミュニケーションの科学』(コスモピア、2015年(https://www.cosmopier.com/shoseki/4864540756/))。
 ならば、その外国語学習法を日本人が西洋音楽を学ぶ上でも活用できるのではないだろうか。こう言うと「もう西洋音楽は十分に日本人の中に根付いているのだから、そんなことは今更必要ない」と反論されるかもしれない。確かに、それはある面では正しい。が、ある面ではもしかしたら間違っているかもしれない。つまり、少なからぬ日本人は「日本語の耳」で西洋音楽を処理しており、たとえば演奏では「カタカナ英語」のようなことをやっている(聴く場合にも、日本語の音認知の枠組みで聞き取れる範囲でしか音楽を聴いていない)可能性はないだろうか、ということだ。そして、もしそうならば、「日本語の耳」を「当該外国語にも対応する耳」へと変える外国語学習法の知見は何かしら有効ではないだろうか(とりわけ、「ソルフェージュ」の段階で)。
(もっとも、私は一概に「カタカナ英語」式の西洋音楽を否定するものではない。むしろ、それはそれでけっこうなことだとさえ思っている。なぜならば、多くの日本人はもっぱら日本語環境の中で暮らしているのであって、その中で無理なく西洋音楽を楽しんでいる(音楽家の場合には「楽しませている」)のだから。だが、それが「外」の世界に目(耳)を閉ざすことであってはならないとも思う)