2020年6月18日木曜日

武満評価の二律背反

 一生涯を通して傑作を生み出し続けることができた作曲家などいない。たいていはどこかで中だるみが生じるか、さもなくば「ネタ切れ」になってしまうかなどするものだ。が、真に偉大な作曲家はそうした創作上の停滞を乗り越え、何かしら新たな局面を切り開いている(その意味でやはりベートーヴェンやストラヴィンスキーなどは偉大な存在だ)。他方、かなり優れた作曲家であっても少なからぬ者が停滞に甘んじてしまい、限られた様式の中で「洗練」や「精緻化」に耽るようになる。
 もっとも、見方を変えれば、「停滞」とは「探し求めた理想の入り口への到達」のことであって、さればこそ「洗練」や「精緻化」がしかるべき意味を持つ、と考えられなくもない。こう言うのは、武満徹のことが念頭にあるからだ。1970年代までの彼の作品は多種多様なありようを示しており、何かを探し求めて試行錯誤を繰り返しているようなところがある。ところが、1980年代以降の作品にはその試行錯誤がなくなり、一所に留まってひたすら様式を磨き上げることに余念がないように見える。これを「停滞」や「マンネリ」ととるか、それとも「深化」ととるかによって、武満作品への評価は大きく異なってくるだろう。
私は1980年代以降の武満作品を「マンネリ」でつまらないとする見方に与するが、だからといって、この時期の作品を成熟の証しだとする見方を否定するものではない。ただ、両者が相容れないのは確かだろう。というのも、1970年代までの作品を高く評価し、そこに見られる「実験」精神を肯定的にとらえるならば、1980年代以降の作風の変化の乏しさは「停滞」としか見られなくなるし、他方、それを「成熟」や「深化」ととらえるならば、1970年代までの作品はそこに至る「前段階」だととらえるしかなく、作品の評価もそれに見合ったものになるからだ。そこで、武満の創作を論じるには、いっそのことこの相容れない(徹底的に違いを際立たせた)両論を併記するかたちにした方がよいのではなかろうか(そして、それは何も武満に限らず、同様な「停滞」や「マンネリ」が取りざたされる作曲家を論じる場合にも有効な手法だろう)。


 昨日話題にしたクレーネクのソナタだが、Naxos Music Libraryで探したところ、イリサベト・クライン(1911-2004)による録音があった。……が、かなり高齢でなされた録音のようでテンポが遅いだけではなく、若者の作品に必要とされる覇気や瑞々しさにも欠けており、このソナタの魅力を味わうには物足りない演奏だった。残念。ジェフリー・ダグラス・マッジによるCDもあったが、これはかなり昔に廃盤。というわけで、覇気のある若者い是非とも挑戦してもらいたいものだ。