2020年6月4日木曜日

「人はそれぞれ皆、異なる次元に生きている」

 あるとき金澤攝さんがもらした一言が忘れられない。曰く、「人はそれぞれ皆、異なる次元に生きている」と。表現は違ったかもしれないが、このような意味のことを確かに言ったのである。1つの同じ音楽作品でも人によってそこに観て取る(聞き取る)光景が違う、ということを話題にしていたときだったと思う。攝さんは時折こうした一瞬ドキリとさせるようなことを言うが、少しするとストンと腑に落ちるのが常で、このときもそうだった。「なるほど、確かにそうかもしれない」と。
意味合いは少し異なるかもしれないが、安冨歩さんもコミュニケーション概念を論じる中で、人が他人と考えやものの見方・感じ方などを「共有するのは無理」だと言う。だが、攝さんにせよ安冨さんにせよ「人と人との繋がり」を否定しているわけではない。2人が述べているのはあくまでもその「前提」についてである。
音楽も含む人とのコミュニケーションでは何かを「共有」することに意味や意義があると以前の私は考えていたが、あるときから完全に宗旨替えをした。つまり、「共有など無理」なのでそうしたものは求めず、お互いの違いを当然の前提とした上で自分にとっても他者にとってもそれぞれに意味や意義を持つような関係や場をつくることが大切だと考えるようになったのである。そのことでいろいろなことが楽になったし、音楽についてのとらえ方も少なからず変わりもした。その一端は『演奏行為論』に示したが、いずれもう少し問題の射程を広げて論じてみたい。

ここ数日、やたらに暑いが、こんなときはやはりジョン・ケージの音楽がよい。昨日は《16のダンス》(1950-51)をCDで楽しく聴いていた(それと同じ音源:https://www.youtube.com/watch?v=1SIWhxEtPLM)。 押しつけがましさが一切なく、ぽつぽつとなる音が何とも涼しげだ。