2020年6月26日金曜日

埋まらない溝があればこそ

 昨日話題にしたような金澤攝さんの視点は、おそらく欧米の研究者からはなかなか出てこないものだろう。というのも、彼らには何らかの伝統的な価値観が(良くも悪くも)染みついており、それが物事を見る際のフィルターになっているからだ。他方、攝さんはフランスで学びはしたものの、そうした「伝統」からは自由な立場にあるために、ベートーヴェンもマイナーな作曲家も「森を構成する一本の木である点において等しい」というふうに物事を見ることができるのだろう。
 日本人にとって西洋音楽は突き詰めれば遠い別の地にある文化である。なるほど、確かに明治期にそれを移入して以来、それなりに身近なものになってはいる。が、たとえそうであっても、どうにも埋まらない溝というのはあるのではないか(「言語」が違い、「思考」様式が違い、その他諸々の点が違っているのだから)。
しかし、だからこそ、「彼ら」には見えないこと、「彼ら」にとっては自明すぎて問題に感じられないことが日本人(に限らず、非欧米人)には見えるということはないだろうか。そして、おそらく、そこにこそ日本人が西洋音楽(などの異文化)を学び、研究し、実践する意義があるはずだ。「本場」の価値観や実践のありようを知ることはもちろん大切である。が、それをそのまま無批判に受け入れて、たとえばベートーヴェンの研究を日本でするようなことにはおそらくあまり意味や価値はあるまい(コピーは原本より劣化するのが常だから。まして、「横のものを縦に直す」ことに留まっている類の「研究」であれば……)。念のために付言しておけば、「日本人のベートーヴェンの研究自体が無意味だ」というのではない。限りなく難しくはあるものの、何か「やりよう」はあるはずだ。そして、そうしたものを探ることが、まさに「研究」というものではなかろうか。